2010年1ペテロの手紙の第2講

御言葉:1ペテロの手紙1:13ー2:3

要 節:1ペテロの手紙1:15

聖なるものとされなさい

新聖歌137、374、363

 

 「クリスチャンとして生きることはいつ命が奪われるか分からない人生を生きることだ」と言える時代に、クリスチャンとして生きるのはどれほど辛いことでしょうか。法律に守られない、むしろ法を実行する者が自分の命を狙う時代に入る直前に苦しい生活を生きていたクリスチャンにやってあげられる慰めの言葉は何でしょうか。使徒ペテロが様々な迫害を受けていた小アジアのクリスチャンのために書いた手紙がペテロの手紙です。まだローマ帝国の迫害が公式的に始まりませんでしたが、当時の人とは違う生き方を取っているクリスチャンに色々な不利益が与えられたことを想像することは難しくありません。

 このようなクリスチャンに使徒ペテロは何と書いたでしょうか。今日の本文を通してその内容の一部を一緒に学びましょう。特に今日の本文には、ペテロが受信者に頼むこと、命令することが五つあります。その五つを通して、迫害の中で、またこの世を生きるクリスチャンがもつべき姿勢を学びるようにお祈りします。

 

 第1、待ち望むことです。 

 13節をご覧ください。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエスキリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と書いてあります。恵みとはイエス様がこの世に再び現れるときもたされることですから、終わりの日に受ける恵みです。また心を引き締め、身を慎むことはいつ何が起こるか分からないから、緊張して準備することを意味します。つまり、イエス・キリストの現われのときがいつか、分からないから(ルカ12:35)、準備する姿勢で恵みを望むことを、使徒ペテロは命じていました

 今、現実が迫害で苦しいのに、終わりの日に来る恵みをひたすら待ち望むように命じられたことを見ると、やはりキリスト教が望みの宗教であることが分かります。迫害が少しは弱まるように、また自分をいじめている者たちに天罰が与えられるように望むことではなく、恵みをひたすら待ち望むように命じられたのです。クリスチャンである私たちが学ぶこともまさにこれではないかと思います。厳しい生活、苦しい生活、またうまく行けない仕事などを考えながら、その原因がなくなるように望まず、終わりの日に自分にもたされる恵みをひたすら待ち望むことが私たちが取るべき姿勢なのです。

 では、私たちはイエスキリストが現れる時、私たちにもたされる恵みを待ち望むことがすべてで、この世でやるべきことが何もないでしょうか。いいえ、あります。使徒ペテロが言います。

 

 第2、聖なるものとされることです。

 14、15節をご覧ください。「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」従順な子どもという意味は親の言葉に従順な子どもだけを意味しません。親の人格や品性に影響されて、親のような人格や品性をもつ子供が従順な子どもなのです。クリスチャンにとって、親は誰でしょうか。父と呼べる方はどなたでしょうか。まさに神様です。ですから、私たちは神様の従順な子どもとなり、神様の品性を表さなければなりません。使徒ペテロは言いました。もう一度15節をご覧ください。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」私たちを召してくださった聖なる方にならって、あらゆる行いにおいて聖なるものとされるように命じられました。

 聖なるとは区別される、離れるという意味です。神様はこの世と区別される方です。この世から離れている方です。この世の汚れとはまったく関係ない方です。この神様を習って、私たちもあらゆる行いにおいて聖なるものとされなければなりません。聖なる者とされること、この意味は聖なるものではないから、聖なるものとなりなさいという意味より、すでに聖なるものですから、聖なる品性を表しなさいという意味です。

 

 16節をご覧ください。「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」と書いてあります。使徒ペテロが旧約の御言葉(レビ11:44)を引用しました

 イスラエルを選ばれて、エジプトから引き出された神様はモーセの律法を通してイスラエルに言われました。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と、神様に選ばれた時から、イスラエルは聖なるものです。他の民と区別される民です。人類を救うキリストが出る民族であり、神様に対する知識を持つ民族です。このイスラエルは神様の律法を通して、自分たちが神様の民であることを表さなければなりません。律法を守ることを通して異邦人とは違う聖なる民であることを示さなければなりません。

 クリスチャンも同じです。イエス・キリストを信じてから、クリスチャンはほかの人を違う新しい人生を生きるようになりました。救われたものとして、そうではない人と区別されなければなりません。イエス様の十字架の死と復活、そしてそれを信じるものに救いが与えられると信じるものは、普通の人と違います。このクリスチャンの使命が聖でることです。自分が神様に召されて、神様の民であることを表すことです。神様が人を召されたのは、一つの理由が個人の救いのために、もう一つの理由が神様の栄光のためだという言葉があるように、私たちが私たちを通して神様の栄光、聖なる神様を示さなければなりません。その方法があらゆる行いにおいて聖なるものとされることです。

 

 あらゆる行いにおいて聖なるものとされることですから、私たちの行いはこの世の者とは違わなければなりません。私たちの行いを見ることだけでも、この世の人たちがクリスチャンが我々と違うと感じさせるほど、私たちの行動は立派でなければならないです。倫理や道徳のことで、尊敬されなければなりません。立派な振る舞い、正しい良心、清めの生き方をもたなければなりません。

 ここで、注意すべきことはこの命令がうけみであることです。私たちが自分を聖なるものとすることではありません。されることです。神様の力によって、聖なるものとされます。クリスチャンを聖なるものとされる方は神様です。

 

 第3、神様をおそれかしこむことです。

 17節をご覧ください。使徒ペテロがまた命じます。「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」神様は人を見た目で判断されません。社会的な地位で判断されません。人の心を見て、公平に判断されます。その方を父と呼んでいるなら、地上にしばらく止まっている間、すなわち私たちがこの世で生きている間、神様を恐れかしこんで過ごさなければなりません。

 私たちがこの世で止まるのはしばらくです。終わりの日がこれば、すべてが裁かれます。神様の前で隠せることがありません。ですから、私たちが生活の中でも、神様を恐れなければなりません。神様はキリストを通して、私たちを救った方です。傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血を通して私たちを救われました。その上、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられました。キリストが、世の始まる前から知られていたように、この救いは神様の主権で成し遂げられています。裁きも神様の主権の下で、終わりの日に行われます。なので、私たちは神様を恐れなければなりません。

 

 第4、互いに心から熱く愛し合うことです。 

 クリスチャンが真理によって生まれ変わった存在です。たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになりました。真理は神様の御言葉です(ヨハネ17:17)。クリスチャンを迫害したローマの役人さえ「クリスチャンに愛がある」と感動したそうです。迫害されると、また厳しい生活中には、身と心の余裕がなくても兄弟・姉妹を熱く愛し合うこと、それが私たちがもつべき姿勢です。

 

 最後に、御言葉を慕い求めることです

 私たちは真理によって生まれ変わりました。神様の御言葉によって、新しい人生が与えられました。すでに生まれ変わったのに、御言葉を慕い求める必要があるでしょうか。あります。2章2節の後半部をご覧ください。「それによって成長し、救いを得るためです。」私たちは救われました。得なければならない救いが別にありません。ただし、2節の救いは終わりの日に与えられる救いを意味します。したがって、終わりの日、救いが与えられるまで、成長するためだと受け入れられます。

 使徒ペテロは単に、御言葉を求めるように薦めませんでした。慕い求めることを命じました。生まれたばかりの乳飲み子のように慕いもとめること、それが赤ちゃんがいる方はすぐ理解できると思います。生まれてばかりの赤ちゃんがやる行動は三つしかないと思います。飲む、寝る、うんこする。特に乳を飲むことに、生まれてばかりの赤ちゃんは必死です。乳が足りない時、また飲めない時、必死に慕い求めます。涙がでるほど泣きながら、慕い求めます。

 クリスチャンである私たちが慕い求めるのは、神の御言葉です。生まれた赤ちゃんのようにそれを求めなければなりません。クリスチャンがほかのことを求めることがありますか、と聞かれたら、あると答えます。欲望の話ではありません。立身しよう、金持ちになろうということより、迫害の中で、悪意、恨みなどが生じることです。迫害されると自分を迫害するものに対して悪意をもちやすいです。その人を恨みやすいです。場合によって悪口で呪うかもしれません。しかし、それはクリスチャン、聖なる神を表すものがもつべき姿勢ではありません。すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めることが必要です。

 

 まとめると、この世を生きるクリスチャンがもつべき姿勢について使徒ペテロが言ったのは、恵みを望むこと、聖なるものとされること、神様を恐れること、互いに熱く愛し合うこと、そして、御言葉を慕い求めることです。この世の生活と密接な関係があることが一つもそうです。知恵をもって迫害から逃げてください、また力や権力を握って誰もクリスチャンを迫害できないようにしなさい、という言葉がありません。終わりの日を望む人のように、また神様が生きておられることを知る人のように、真理の御言葉に従うことを頼みました。

 日本宣教師である私たちが日本で、生きながら色々が苦しい目に会うと思います。その時、恵みを待ち望めますように、聖なるものとされますように、お祈りします。この世のつらさで、この世に対する悪意より、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めることができますようにお祈りします。

 

 

 

2010年1ペテロの手紙の第2講

聖なるものとされなさい

御言葉:ペテロの手紙1:13-2:3

要 節:ペテロの手紙1:15

 

1.13ー16節を読んでみましょう。キリストが現れる時を備えて私たちは何をすべきですか。私たちにもたらされる恵みについて話してみましょう(13)。従順な子どもについて考えてみましょう(14)。「聖なる」の意味について、また聖なるものとなる方法について話してみましょう(16)。

 

2.なぜ私たちは父なる神を恐れるべきでしょうか。地上でしばらく止まっているとは何の意味ですか(17)。神様は何の方法を通して私たちを贖われましたか(19)。信仰と希望を神にかかっていることについて話してみましょう(21)。

 

3.22-25節を読んでみましょう。互いに心から熱く愛し合える方法は何ですか(22)。朽ちない種から新しく生まれたことについて考えてみましょう(23)。神の言葉と世のものとの違いは何ですか(25)。

 

4.2章1-3節を読んでみましょう。新しい生まれた者として私たちが求めるべきことは何ですか、またなぜですか(2)。主のいつくしみを味わっていることについて話してみましょう(3)。