2010年1ペテロの手紙の第3講

御言葉:1ペテロの手紙2:4-25

要 節:1ペテロの手紙2:4

生ける石

新聖歌244、399


 ペテロがアジアに送ったペテロの手紙は、慰めの手紙です。迫害で苦しんでいたアジアの信徒を慰め、彼らがいくら尊い存在であるかを教えてくれる手紙です。この手紙を通して、私たちが私たちがどういう存在か、また何を通して、神様の栄光を表せるかを学ぶ事ができます。本文の意味を考えながら、それを心に刻めるようにお祈りします。


 4節をご覧ください。ペテロはイエスキリストを思わせます。イエス・キリストはどなただったでしょうか。人類を救うために、この世に来られた神様の一人息子でした。しかし、人たち、ユダヤ人たちはイエス・キリストを受け入れませんでした。救い主として認めませんでした。それで建築現場で、何の必要もなくて、捨てた石のように、捨てられました。でも人が捨てても、神様の扱いが違いました。神様の目には尊い石でした。生ける石でした。神様はイエス様を尊ばれました。

 アジアで迫害されていた信徒たちは自分たちをどういうに思ったでしょうか。数の少なく、マイナーで、さらに迫害まで受けていたから、大切な者ではないと思いがちでしょう。彼らは落ち込んでいたと思います。私の経験から考えても、かなり絶望していたと思われます。私、昨年の年末から、アルバイトを探していました。美味しい仕事を待たず、勉強に妨げない範囲で出来るアルバイトを探していました。しかし、申し込んだすべてのアルバイトから不採用の通知を貰いました。まだ履歴書を出したところが2ケタには至りませんでしたが、あまり立派なバイトでもないのに、断れたことで、自分に対して否定的な考えが差し込まれました。歳のためか、得意技がないためか、と考え始めました。アルバイトの世界で私は立派な者ではないと思います。アルバイトでもこのように十分に落ち込むのに、迫害で、信徒たちは自分たちをどういうに思ったでしょうか。クリスチャンであるという理由で、財産が奪われ、自分と家族の命まで脅威されることを経験しながら、彼らの心には何の思いが差し込まれたでしょうか。この世に捨てられた、神様にも捨てられたのではないかという思いが入ったと思います。

 ペテロがこのようなアジアの信徒たちに、まずイエス様を思わせます。4章をもう一度、ご覧ください。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」人の目にはイエス様は捨てられました。イエス様が死刑宣告を貰ったのは異邦人によらず、同じ民であったユダ人によりました。自分の民からも捨てられた人が人類の救い主と言えるでしょうか。言えないと思います。しかし、それは人間の考えにすぎません。神様の目には、選ばれた、尊い、生ける石なのです。旧約から預言された救い主で、神様はイエス様を蘇らせ、栄光を与えられました(1:21)。また人類の救い御業の礎の石として用いられました。

 5節をご覧ください。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエスキリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」信徒を「生ける石」、「聖なる祭祀」と呼びます。信徒、クリスチャンは「生ける石」です。神様が神様の教会を築くことに尊い用いられる石なのです。人の目には、迫害される存在、存在感が薄くものにすぎないかもしれませんが、神様の目には選ばれた、尊い生ける石なのです。この言葉が、迫害を貰っていたアジアのクリスチャンにどれほどの慰めになったか、想像がつかないです。迫害されて、責められて、落ち込んでいる人に、実は君、尊い者で、とても必要な原石のような者だと言ったら、どれほど感動して、勇気を出すでしょうか。さらに、神様がそのように思っているといったら、その感動が何倍になったと思います。


 9節をご覧ください。ペテロは信徒たちが誰なのか、教えてくれます。 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」イエス様を信じて、クリスチャンとなった人々は、様々な身分の人だったと思います。その中にはこの世によって決して尊ばれない人も少なかったと思います。奴隷や女性など、人として数えられない身分の人も少なくなかったと思います。そのような人を含めて、イエス・キリストを信じるすべての人を王である祭司、聖なる国民、神様の所有とされた民と言います。

 神様は人類の救いの御業のために、素晴らしいプランを持たれました。民族を選んで、その民から救い主が生まれ、人類を救う計画でした。それで、イスラエルを選び、イスラエルに神様の愛や能力や主権などを教えられました。出エジプト記、19章5、6節を見ると、次のように書いてあります。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」預言のとおり、イスラエルからイエス・キリストが生まれ、十字架にしなれ、また蘇ってから、その役割はイエス様を信じる人に移されました。イエス・キリストを信じる人が王である祭司、聖なる国民、神様の所有の民となって、自分たちをやみの中から、光の中に招いてくださった方の素晴らしい御業をのべ伝えるようになりました。クリスチャンは、人の魂を救う御業に用いられる尊い存在なのです。

 また神様の所有であることで、プライドが高まったと思います。奴隷の間の力関係は、主人の力によって異なります。王の奴隷は奴隷の中で王のように振る舞いをすることができます。市民の奴隷は王の奴隷の前で軽率な振る舞いを自制しなかければなりません。普通の人も同じでしょう。自分を属している団体によって、扱いが違うことがあります。当時のローマの市民権のように、今のアメリカの市民権を持つと、第1の強大国の保護を受けることができます。アメリカの市民権者に不当なことが起こると、アメリカを相手しなければなりません。

 迫害されているクリスチャンが今の無下な民のように考えられます。後になると、法律の保護さえ受けなくなるからです。しかし、彼らは元々神様の所有とされる民です。神の国に入れます。この世では寄留者にすぎませんが、まるで身分証明書が二枚あるように、天国の身分も持っているのです。

 同じローマ市民であっても、ローマ帝国で住んでいた人でも、クリスチャンであることで、区別され、大小の迫害を受けていたクリスチャンにとって、自分たちが王である祭祀、聖なる民、さらに神様の所有である事実は恵みで、迫害から自分を支える力だったと思います。


 このような王である祭祀、聖なる民、さらに神様の所有であるクリスチャンには使命があります。この世で良い影響で及ぼすことです。9節の後半部をご覧ください。「…、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」私たちの使命は、私たちを罪の闇から、光の中に招いてくださったイエス様の素晴らしい御業をのべつたえることです。

 人が救われたことにはふたつの目的があります。一つは、一人が滅ばされることなく、救われて命を保たせるためです。もう一人、救われた御業、また福音をのべつたえるためです。ですから、クリスチャンになってから、福音を伝えることは離れることができない定めのようなことです。福音を伝えなさいというと、素晴らしいことを立派に説明しなければならないプレッシャーを感じるかもしれませんが、聖書の書いてあるとおりにやればよいのです。9節の後半部に書いてあるように、自分をやみの中から、驚くべき光の中に招いてくださったキリストを証しすればよいのです。


 また12節をご覧ください。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」私たちが異邦人の中にいる理由が書いてあります。クリスチャンが、偶像崇拝の蔓延している社会で居る理由がなければ、そこから離れて、人がいない山か、島で住めば良いのではないかと思ったときはないでしょうか。そこには迫害もありません。 迫害の恐れで、賛美歌を小さい声で歌う必要もありません。クリスチャンたちの共同体を作ることもできるから、協力しながら神様を賛美することもできます。しかし、ペテロは人の制度に従うことを勧めました。また主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、従うことを勧めました(14)。この世で、異邦人と一緒に暮らしながら、国の権力に従うことを意味します。それが私たちの行動を通して神様の栄光が現れるためです(12)。異邦人が私たちの立派な行いを見て、神様を誉めたたえるためです。ですから、私たちの振るまいと行いは立派でなければなりません。

 異邦人の中で、立派な振る舞い、偉い行いを見せることは単なる事でありません。さらに自分たちを迫害している者の中でその人たちに立派な振る舞いを見せることが難関かもしれません。しかし、私たちの見本なる方を考えれば、それが出来ると思います。キリストは私たちに模範を残しました。22-23節をご覧ください。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」このキリストを考えれば、出来ると思います。キリストが私たちに残してくださった模範に従って、立派に振る舞い、善を行い、また苦しみを耐え忍ぶなら、神様が喜ばれます(20)。


 日本は宗教がタブになる国ではないかと思います。それで、キリスト教の「キ」の字が出ても、カルト団体と誤解されるかもしれません。ですから、福音を伝えようと機会を狙っても機会がなかなか生じません。この中で、私たちがどうすれば良いでしょうか。今日の本文のそのカギがあると思います。異邦人の中で住んでいたアジアのクリスチャンたちにペテロが書いた手紙から方向を見つけることが出来ます。立派な振る舞い、立派な行いを行うことです。

 クリスチャンの人口が僅か、1%にも至らない異邦人の国、日本で私たちの振る舞いはキリスト教を判断する重要な基準となると思います。ですから、私たちが使命を持って、自分の行い、振る舞いに気を付けなければなりません。日本の人が福音に耳を傾けようとするのは、まず私たちの行動を見てからです。

 模範となるイエス様に従って、私たちが立派な振る舞いを行えるようにお祈りします。それで、神様が誉めたたえられるようにお祈りします。


2010年1ペテロの手紙3

御言葉:1ペテロの手紙2:4ー25

要 節:1ペテロの手紙2:4

生ける石


1.4-8節をご覧ください。「生ける石」は誰ですか(4)。霊の家と霊のいけにえの意味について話してみましょう(5)。聖書には「生ける石」について何と書いてありますか。なぜ、主は捨てた石と呼ばれましたか。主を尊ぶ方は誰ですか(4,6,7)。主がつまずきの石となるのはなぜですか(8)。


2.9-12節を読んだください。神様が神様の民を選ばれたのはなぜですか(9)。王である祭祀、最成る国民の意味は何ですか(出19:5,6)。信徒が受けた特別な恵みは何ですか(10)。神様の栄光のために、私たちに勧められたことは何ですか(11,12)。


3.13-17節を読んでください。人の制度に対して信徒が取るべき姿勢は何ですか(13)。なぜですか(15)。自由人が自由を奴隷になることに用いることについて話してみましょう(16)。


4.18-25節を読んでください。ペテロが書いた二つの苦しみについて考えてみましょう(18-21)。私たちが召されたのは何のためですか(21)。苦しみを耐え忍んだ主の模範について話してみましょう。主が私たちのために行われたことは何ですか、またなぜですか(24)。


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