2010年1ペテロの手紙4講

御言葉:1ペテロの手紙3:1-22 

要 節:1ペテロの手紙3:9

美しい家庭教会

新聖歌364、388


 結婚してから、また息子、有真君が生まれてから、周りの多くの方から、特に宣教師たちから言われました。家庭は重要だ、家庭を通して神様の栄光が現れる、家庭で神様の愛を実践できる、と。私に助言してくれた方々は皆、私より年上、さらに結婚して子を育てた経験を持っている方々だったから、その助言は体験から出た尊いものだと思います。

 宣教師たちの経験ではなくても、家庭の重要性はいくら強調しても足りないと思います。キリスト教の教会の形も、家庭教会から始まったそうです。初期に礼拝を捧げる建物がいるわけがありません。家庭で家族が集まって礼拝を捧げたのが教会の初期形でした。ですから、家庭の平和が教会の平和になり、家庭の不和が教会の不和に繋がります。

 では、平和の教会を作るために、平和の家庭を作るために、私たちが守るべきこと、実践すべきことは何でしょうか。それがペテロの手紙に書いてあります。ペテロの手紙3章の御言葉を通してそれを学びたいと思います。


 第1に、妻が夫に服従することです。

 「妻は夫に従うべき」という意味ですが、これは主人と奴隷の関係を表すことではありません。ペテロの手紙3章1節を見ると、「同じように」と書いてあります。これは2章13節に続くことで、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うように、夫に服従することを指します。クリスチャンが人の立てた制度に従わなければならない理由があるでしょうか。クリスチャンはこの世で望みを持っている者でもないし、神様が立てた制度でもない人間の制度に従わなければならない理由なんで、なさそうに考えられます。しかし、この世で神様を信じるものとして、よい影響を及ぼすために、また人間が立てた制度の裏に神様の導きがあるという信仰に基づいて、人の立てた制度に従わなければなりません。同じように、妻も夫に従わなければなりません。奴隷の従順が求められていません。クリスチャンが人の立てた制度に神様のゆえに従うように、夫と結婚させたことには神様の導きがあるという信仰で服従するのです。たとい、みことばに従わない夫であっても、神様の導きを信じながら、服従しなければなりません。

 御言葉に従わない夫は、クリスチャンと異なる背景と信仰を持つ人でしょう。他の神を信じているかもしれないし、神はいないと信じている無神論者かもしれません。分かりやすい状況に言い換えれば、クリスチャンの妻と、仏教を信じる夫、あるいはモスレムの夫、もしくは天国に望んでいる妻と、この世での成功を追っている夫のことだと思います。信じることが異なる、価値観の違いがある二人が同じ家で一緒に暮らすと、大きなトラブルが生じると思います。キリストを信じることで、夫の口から、また目線からの迫害がないとは言えないと思います。すると、自分の信仰のために、堂々に闘いたくなるかもしれません。口げんかでもやるかという気持ちになるかもしれません。この場合、妻なるものは無言で、柔和で穏やかに行動しなければなりません。


 妻が御言葉に従わない夫に服従するのは、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです(1)。夫と妻が騙せないという言葉を先輩の宣教師から聞いたことがあります。人が成熟な信仰を持たないと必ず、神様から訓練をうける、それは避けられない、と言われました。もしセンターでマンツマン牧者が見逃したことがあっても、自分の夫や妻から騙せない、一緒に住んでいるからすべてが現れる、それで、自分の夫や妻を通して訓練させるという意味でした。御言葉に従わない夫は御言葉に従う妻をずっと見ます。一体、何を信じて、どういうに行動するか、と観察します。その行動を見て、神様に対する認識を変えます。ですから、信仰のことで、口で喧嘩を売る必要はありません。自分の行動で見せればよいのです。

 具体的には、神を恐れかしこむ清い生き方と柔和で穏やかな行動を見せなければなりません。クリスチャンに好意を持たない者でも、清い生き方と柔和で穏やかな行動で人を評価するものは少なくありません。私の父もクリスチャンに対してあまり好意を持たないタイプです。しかし、親族の伯母さんの清い生き方、柔和で穏やかな行動を高く評価して、私と母が教会に通うことに文句を言いません。また伯母さんの家も伯母さんの影響で家族全員がクリスチャンになったそうです。


 無言の振る舞いで、見せれば必ず神様の導きがあると私は信じます。夫が変わると信じます。夫に服従しながら、御言葉に従わない夫の前で柔和で穏やかな行動は家庭の平和に、また神様の導きや栄光を表すことに礎の石となると信じてください。

 

 第2に、夫は妻を「弱い器」だとわきまえることです。

 妻だけに義務が与えられるのではありません。家庭のために、また神様の栄光のために、夫がやるべきこともあります。それは妻を「弱い器だ」とわきまえることです。弱いという意味は信仰が、あるいは霊的に弱いという意味ではありません。私の経験によれば、女性の方が信仰が強そうです。UBF教会の柱は女性牧者で、彼女たちの信仰によって私たちが大きな祝福を貰ったと信じます。霊的な面で見ると、男性よりむしろ女性が強いと思います。弱い器の意味は感情の面で繊細であり、肉体的な面で弱いという意味です。ですから、夫は妻がこの面で、弱いということをわきまえなければなりません。

 人は自分を中心に考えがちです。男はこの世の人がみな男のようだと考えがちです。体は強くて、気質(きしつ)は荒っぽいと思いやすいです。タフな体と性格が男同士の間に評価されるから、それを目指して外にも家にもタフであることを望むかもしれません。しかし、妻の前で荒っぽくふるまえてはいけません。暴言や暴力はありえません。女性は敏感で繊細なもので、少しの衝撃でも壊れやすい器のような存在です。それをわきまえなければなりません。

 聞いた話ですが、妻に気が荒くて、妻に傷をあげる牧者がいたそうです。故李サムエル宣教師はそれを直すために、牧者に楽器チェロを学ばせたと言います。チェロを抱いて柔らかに演奏することを通して、自分の同労者である妻にも優しくするのを学ばせるため、弓に力を入れる強弱を通してチェロの音が敏感に違うことを悟って、一言や小さな振る舞いでも妻の反応がどうなるかを学ばせるためでした。

 女性は男性と違います。それをわきまえて、共に生活することは私たち、男性が家庭のために踏み出さなければならない一歩だと思います。


 第3に、祝福を与えることです。

 ペテロの手紙3章9節の御言葉をご覧ください。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」迫害を貰ったローマ時代より、クリスチャンには「愛が多い」と言われました。クリスチャンを迫害する人すら、それを認めるほどでした。クリスチャンの愛が9節で現れたと私は思います。仲間や同士たちを愛することは、どんな集まりでも勧められることだと思います。互いに闘いなさい、同士を憎みなさいと教える組織は常識的にないと思います。でも悪を悪に報いず、自分に害を加えた人に対して、祝福で返すのは聖書が言う愛だと思います。

 映画、小説、ドラマを見ると、復讐はストーリーの中で欠かせない要素だと思われます。最初の被害者たちは自分が受けた害を何倍にして返す酷い復讐を企みます。「人は悪を悪に報う」、それが本性です。さらに決して報う悪を減らすことがありません。悪人によって自分の体に釘(くぎ)が一つさされたら、悪人には3,4本のくぎが刺されるように望みます。でも私たちが実践すべき愛は、私たちを迫害するものを、また私たちに傷つけた人を祝福することです。相手を赦すことに限らず、相手が祝福を貰うように祈ることです。そのために召されたのはクリスチャンなのです。二人の息子を殺した犯人を養子にした孫牧師(1902ー1950)の話がクリスチャンの愛を表す良い例だと思います。赦すことに止まらず、聖書に書いてある「愛しなさい」という御言葉に従って息子の敵を受け入れたのです。

 

 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えると、この世からは弱虫だと言われるかもしれません。力がなくて、あるいは闘いをいやがって腰を抜いている、または気が狂ってそのような怪しい行動をすると言われるかもしれません。だが、私たちがこの世の評価を気にする必要はありません。12節に書いてあるように、主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられます。主である神様がすべてのことを見ておられます。

 それでも愛を実践して、敵に祝福を与えてることを行いにくいなら、私たちの救い主、イエス・キリストを考えてみましょう。18節をご覧ください。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」悪人である私たちのために、死なれたキリストは私たちが救われ、キリストを信じる誰でも命を奪われないようにしました。私たち、人間をそれほど愛して、その愛を自ら示しました。その愛によって救われた私たちはその愛を実践するために召されたのです。ですから、キリストを覚えながら、悪をもって悪に報いず、かえって祝福を与えなければなりません。


 まとめると、ペテロは迫害されていたアジア教会の信徒たちに具体的な方向を与えました。夫に服従すること、妻を弱い器だとわきまえること、また悪を持って悪に報いず、祝福を与えることです。迫害の時代に慰めの言葉をつためませんでした。迫害が終わります。苦尽甘来(くじんかんらい)、苦(く)は去り、楽は来たるとは言いませんでした。むしろ、苦しみを受けるために、あなた方が召された、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことだ(14)と言いました。美しい家庭教会を作るために、また信徒たちの共同体に必要なことが何かについて教えてくださいました。ペテロの頭の中には、神様の栄光やイエスキリストの愛しかないと思われるほどです。

 その通りです。クリスチャンになって、この世に認められると期待することは無理ではないかと思います。むしろ非難され、迫害されます。それにもかかわらず、私たちが動揺せず、信仰を守ることができたのは、天国の望みを持たされたからだと思います。ですから、迫害あるこそ、天国のこと、神様の栄光、自分の使命を覚えさせる必要があったのです。

 私たち、辛いことをいっぱい経験したと思います。またこれからも続くでしょう。何で、苦しい人生を生きるか、そのことはこの世でクリスチャンが避けられないことではないかと思います。ただ私たちは、私たちに与えられた使命を果たせばよいと思います。天国の望みを持ちながら、また私たちの模範となるイエス様を覚えながら、御言葉に従えばよいと思います。それが私たちを通して神様の栄光が現れる最善の道だと信じます。私たちが御言葉に従って、神様の栄光なる人生を生きるようにお祈りします。



2010年1ペテロの手紙4講

御言葉:1ペテロの手紙3:1-22

要 節:1ペテロの手紙3:15

美しい家庭教会


1.1-6節を読んでください。「同じように」が指していることは何ですか(参照:2章13節)。御言葉に従わない夫が神のものとされるのはなぜですか(1)。神の御前で女性の価値になるものは何ですか(4)。敬虔な婦人の模範となる人が誰ですか(6)。サラの例えを通して何を学べるかについて話してみましょう。


2.7-12節を読んでください。妻に対して取るべき夫の姿勢は何ですか。なぜですか(7)。「弱い器」の意味について考えてみましょう。他人に対して取るべき姿勢は何ですか、なぜですか(8,9)。なぜ私たちは舌を押させなければならないですか(10-12)。今までのことが信徒の共同体に作ることに何の役に立つかについて話してみましょう。


3.13-17節をご覧ください。人々が恐れやすいことは何ですか(14)。なぜ恐れてはならないかについて考えてみましょう。恐れを乗り越えて、人々に良い影響を及ぼすことについて話してみましょう(16、17)。


4.18-22節をご覧ください。キリストが私たちのために死なれたのはなぜですか(18)。ノアの時代に神に従わなかった人々はどのようになりましたか(20, 参照:創世記7:21)。ノアの船箱の象徴とキリストの救いについて話してみましょう。キリストの復活によって私たちに与えられる望みについて話してみましょう(22)。