2010年ペテロの手紙の第7講
御言葉:2ペテロの手紙1:1-21
要 節:2ペテロの手紙1:4
神のご性質にあずかる者
新聖歌137
ペテロの手紙の第1と第2は迫害や苦難の中にいる生徒たちを慰めるために書かれました。しかし、苦難の性格は違いました。第1のペテロの手紙が異邦人や国家権力から迫害を受けていた信徒たちを慰めるために書かれた事に対して、第2のペテロの手紙は教会の偽りの教師に苦しんでいた信徒たちを慰めるために書かれました。
偽りの教師の主張は、使徒たちや預言者たちの言葉とは異なりました。彼らはイエス様の再臨がないと主張しました。神様がこの世を裁く時、選ばれた神の民を救うためにイエス様がもう一度この世に来られることはないと言いました。人間の救いはすべて完成されたから、人間は何の行動を取っても問題なく、それで自由に生きるべきだと言いました。また偽りの教師たちは自分の主張の根拠を示すために自分なりの聖書を解析し、自分たちの主張に合う一部の聖書内容を強調したり、ほかの部分は否認したり、していました。このような状況で書かれたペテロの手紙は私たちが貰った祝福を思わせ、またそれを忘れないように勧めています。またイエス様の再臨を待っている信徒が持つべき姿勢についても教えてくれます。今週のメッセージを通して、それを一つ一つ黙想する機会を持てるようにお祈りします。
第1、私たちには霊的な祝福が与えられました。
2節をご覧ください。「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」ペテロがこの手紙を読む人に恵みと平安が与えられるように言いました。 恵みと平安は単なる挨拶ではありません。霊的な祝福だと言えます。安らぎを求めている現代社会人を考えれば、心の中に恵みと平安が与えられるのがどれほど祝福であるかがすぐ分かります。その恵みと平安が何によって与えられるでしょうか。神と私たちの主イエスを知ることによって与えられます。神と私たちの主イエスを知ることは理性や霊知主義のような秘密の知識を知ることではありません。つまり神様とイエス・キリストを人格的に知ることを意味します。
ある人の人格を知るためには皆さんはどうするでしゅうか。その人の履歴書や業績書を読んでも人格を知ることはできません。人の言葉や行動を聞いたり、見たりする必要があります。可能であれば、直接に出会って話すことも必要です。それだけではなく、夢は何か、価値観は何か、そのためにどれほど頑張っているか、さらに苦難の瞬間、厳しい時期、どういう方法で忍耐するかなどをも分からなければなりません。
イエス・キリストを人格的に知ることも同じだと思います。単に人類の聖人というタイトルで分かったイエス様ではなく、 イエス様の教えは何なのか、イエス様の行いは何だったか、イエス様はなぜここに来られたか、苦難を耐えたイエス様は何方か、その上、祈りを通して教えて貰ったイエス様が人格的にイエス様を知ることだと思います。このように知ることによって、私たちに恵みと平安が与えられるのです。
続いて、使徒ペテロは信徒たちに与えられる霊的な祝福について言います。3節をご覧ください。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」命と敬虔が与えられました。いのちは霊的な命を意味します。裁かれるべきものが裁きを免れます。最後の裁きが免れたから、命が与えられることに等しいでしょう。また敬虔とは神様の志に従おうとする生活です。善の神様を従って善を行う生活、罪を憎む神様に従って罪を憎む生活、愛の神様に従って愛を実践する生活を意味します。これらが祝福であることは言うまでもないと思います。裁きを願う者はいないと思います。自分が裁かれることを切に祈る人はほとんどいないと思います。また敬虔な生活とは、自分の心に願ったにも関わらず、それができず、いつも悪を行わざるを得ないものに変わった人生をプレゼントすることです。その祝福は人間の力によって与えられません。人間の努力によって得られることではありません。主イエスの、神としての御力によって与えられます。顧みると、私たちが以前より敬虔な生活、神様の御心に従う生活の下で生きるようになったのは私たちの能力によらず、私たちの牧者の訓戒によらず、イエスキリストの力によったのです。
4節をご覧ください。また私たちに与えられる祝福を教えてくれます。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」私たちが貰った約束は何でしょうか。ヨハネの福音書、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)、1ペテロの手紙「私たちの主イエス․キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス․キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(1:3,4)、1コリント人への手紙、「死者の复活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(15:42ー44)、聖書に書かれた神様の約束が与えられました。このように、尊い、素晴らしい約束に私たちに与えられた理由は何でしょうか。世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
神のご性質にあずかるとは、私たちが生まれ変わるという意味です。以前には、怒りの子だったのに、生まれ変われ、神の子と呼ばれます。また神に似ていくことをも意味します。神様は聖なる方です。私たちも聖なるものとなっていきます。神様は愛です。私たちからも愛がでます。神様は忍耐する方です。私たちにも様々な苦難を忍耐することができます。イエスキリストを信じることによって、私たちがこのような祝福が与えられるのです。
第2、努力して加えることがあります。
5節から7節をご覧ください。「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」私たちに努力して加えることがありました。それを加えればどうなるでしょうか。8節をご覧ください。「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス․キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」逆に言えば、加えれば役に立つもの、実を結ばないものになります。
私たちが実を結べるのは何があるでしょうか。弟子養成することも実になります。でもまずは私たちの成長だと思います。もっと成熟な信仰を持つ者となること、また神様のしもべとして相応しい徳目を持つことが実になると思います。もし加えることがなくて、成長できないなら、つまりそれらの徳目を備えないならどうなるでしょうか。9節に書いてあります。 自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまいます。自分が救われて、生まれ変わっても自分が同じ罪を繰り返していると思うと、果たして自分が救われたか、自分の罪が清められたかと懐疑を抱くでしょう。南山UBFにも全く同じケースの牧者がいました。タバコを吸うことにつまずいたのです。牧者になってもタバコを吸うことをやめることが出来なくて、自分の願いと行動の乖離で苦しかったそうです。ちなみに韓国のクリスチャンはお酒とタバコをやりません。
私たちが救われたことに満足して、何もやらないと、また自由にこの世のことを楽しむと自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまいます。ですから、私たちはますます熱心に、召されたことと選ばれたことを覚えなければなりません。私たちは神様に救われました。私たちは選ばれた存在です。このような私たちが放蕩な生活を生きてはいけません。神様の栄光のためにも、素晴らしい道徳を身に付けなければなりません。
ペテロは信徒にそれを思わせることが自分の使命であると言います。14、15節をご覧ください。「それは、私たちの主イエス․キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」ペテロは自分がこの世を去る時が来ていると感じたようです。従って、自分に与えられたこと、信徒たちにイエスキリストの救いと覚えさせることについて言います。
またペテロは強調しています。使徒たちが伝えた話が真であることを強調します。16節をご覧ください。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス․キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」ペテロ、自分が証人です。イエス様の姿が変わった時、また天から、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」という声が聞こえた時、それを見て、聞いた人がペテロでした。作り話だといっている偽りの教師たちに反論したのです。また聖書の御言葉もイエス様の再臨を言っています。神様の霊感によって書かれた聖書は神様の御言葉です。それを信じないと信徒たちが信じれることは何もありません。
結論で、救われたとして、何もせず、放蕩に生きてはいけません。むしろあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなければなりません。止まっていれば退けられるだけです。
宣教師の生き方、甘くないと思います。十字架も多いです。一つ一つの十字架も重くて、一つを負うことさえ、力が足りないかもしれません。その中で、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、愛を加えなければなりません。厳しいでしょう。しかし、それが出来なければ、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまいます。
徳目に加えることに頑張りましょう。それで、身を結ぶ者となりましょう。自分が成長して、またキャンパスの羊を助ける者となりましょう。それがペテロを通して私たちに伝えられたイエス様の願いだと信じます。
2010年ペテロの手紙の第7講
御言葉:2ペテロの手紙1:1-21
要 節:2ペテロの手紙1:4
神のご性質にあずかる者
1.ペテロは自分を何者だと言っていますか。宛先の者は誰ですか(1)。主イエスの神としての力が私たちに与えることは何ですか、何によって与えられますか(3)。栄光と徳によって私たちに与えられたことは何ですか、なぜですか(4)。「神のご性質」について考えてみましょう。
2.クリスチャンが備えなければならないことは何ですか(5-7)。備わるとどういうにならないですか(8)。備えないものはどのようになりますか(9)。私たちが確かなものとしなければならないことは何ですか(10)。すると何の祝福が与えられますか(10,11)。
3.真理に立っている人たちにペテロが思い起こさせたことは何ですか(12)。なぜですか(13ー15)。 ペテロが知らせたことは何ですか(16)。知らせが事実であると確信する理由は何ですか(16-18)。イエス様の威光を見て変わったペテロの人生について話してみましょう。
4.ペテロの知らせのより確実な証拠は何ですか(19a)。私たちがどれほど御言葉に集中しなければなりませんか(19b)。聖書を解釈する時、注意しなければならないことは何ですか(20)。聖書の権威はどこから出ますか(21)。