2010年第2のペテロの手紙

御言葉:2ペテロの手紙2:1-3:18

要 節:2ペテロの手紙3:10

新聖歌137、

盗人のように来る主の日


 いろいろ、ペテロの手紙の最後のメッセージです。内外に様々な問題に苦しんでいた信徒たちのために書かれたペテロの手紙の最後の章には、偽りの教えを伝えるにせ教師のことが書いてあります。彼らは何者でしょうか。またペテロが繰り返して教える神の裁きの日はいつ、どのような形で来るでしょうか。ペテロの手紙を通して、一緒に考える時間を持ちたいと思います。


1.滅ばれるニセ教師

 a. ニセ教師の特徴(1-3)

 1節をご覧ください。使徒ペテロはイスラエルの中でニセ預言者が出たように、ニセ教師が出ると言っています。旧約時代のニセ預言者は民の期待や希望に従って、勝手に預言しました。イスラエルの滅亡が近かったのに、平和を宣布して、民が悔い改める機会を奪いました。さらに、神様のしもべを迫害することもありました。エレミヤのような預言者を迫害したことが代表的な例です(エレミヤ28章)。歴史的にニセ預言者が出たように、ニセ教師が出るとペテロが言っています。使徒ペテロは彼らの特徴を教えてくれます。

 一つ、ニセ教師はキリストを否認します。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。自分の血で私たちを買い取ってくださった主です。しかし、ニセ教師たちは異端を持ち込で、主を否認させます。異端は本来、「意見、見解」という意味です。古代ギリシャでは、異なる思想を言う哲学学派を指しました。ところが、本文では正しい信仰から外れた誤りの見解を意味します。異端思想は、イエス様の神性を否認したり、人生を否認したりします。このような異端を持ち込むニセ教師たちは自ら滅びを招く者です。

 一つ、ニセ教師は好色なものです。聖書の教えは清潔な生き方を進んでいます。一人の夫と一人の妻が結合することが勧められます。しかしニセ教師は、色が好きなことが人間の自然な感情だと教えて、色を貪るように誘います。それが自由だと教えます。そのために、多くの人たちが誘惑に落ちやすいです。それで、真理の道がそしりを受けるのです。

 一つ、ニセ預言者は貪欲なものです。貪欲とは個人の欲望を満たす心で、主にお金に関する欲を指します。喰いものとすることは利得を得るという意味で、ニセ預言者は作り事のことばをもって、人から利得を得る商売する者なのです。彼らは詐欺師で、嘘付きです。彼らは結局、滅ばされます。彼らに対する裁きは昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。


 b. 裁きの前例

 使徒ペテロは、ニセ教師に対する裁きがあると言います。そしてその前例を思わせます。まず、罪を犯した天使のことを挙げます。4節をご覧ください。「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」御使いたちは人間とは違って、霊の存在として神様に仕える特権がありました。しかし驕慢が生じて、地位を離れて、神様のようになろうとしました(エズケル28:14.15.17)。神様は御使いたちでも、罪を犯したら容赦せず、裁くことを見せました。

 次はノアの洪水のことです。ノアの時代の人々は一言で、不敬虔な者たちでした。神様は彼らを水で裁くと警告しました。しかし、すぐ裁かなく、悔い改める時間を与えてくださいました。ノアが箱船を造る120年間、悔い改めることを促しました。しかし、人々が悔い改めなくて、神様は洪水を通して裁き、箱船に乗ったノアと彼の家族のみが救われました(創7:22,23)。

 最後の例はソドムとゴモラの町を裁いたことです。ソドムとゴモラは無節操な者たちの好色なふるまいが溢れる所でした。創世記18:20節には、「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」と書いてあります。そのようなソドムとゴモラの町を火で裁いて、以後の不敬虔な者へのみせしめとしました。


 4-6節の御言葉の原文を見ると、「if」で始まったそうです。それはもし神様が罪を犯した御使い、ノアの時代の不敬虔な人々、そして罪と悪が溢れるソドムとゴモラを裁いたら、今のニセ教師たちを裁くのではないかという意味です。裁きはあります。すぐ裁かないことは悔い改める機会を与えるためなのです。


 c. ニセ預言者の罪

 これから、使徒ペテロがニセ預言者の罪について述べます。まず彼らは驕慢に振る舞いしました。10節をご覧ください。汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちを蔑視しました。彼らは大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありませんでした。 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。ユダ人の伝承によると、「御使いのかしらミカエルは、モ-セのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言ったそうです(ユダの手紙1:9)。しかしニセ教師たちは自分が知らないことを非難しました。彼らはまるで、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物のようでした。

 次に、ニセ教師は快楽を追いつく罪人です。13,14節をご覧ください。「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを樂しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを樂しんでいるのです。その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」普通、宴会は夜に行います。昼にも飲み騒ぐことを樂しむものは快楽を追いつくものなのです。

 次に、ニセ教師は金を追いつく罪人です。15,16節をご覧ください。「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」民数記22章を見ると、預言者バラムはイスラエルを呪ってくださいという頼みを受けます。最初は断りましたが、次には金に心が引っかけられて、頼みを受けました。イスラエルを呪いに行く中、彼が乗ったロバが彼の罪を悟らせましたが、彼は結局、滅ばされました。


 17節をご覧ください。ペテロが比喩を通して彼らの正体を暴露します。彼らを比喩します。「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。」 水のない泉、イスラエルには実際に、水もない泉が多かったそうです。水も泉で私たちが何を求めることができるでしょうか。水を求めて泉を探したのに、水がない、ということは喜びと生命を求めて教師を探したのに、何も得られないことです。ニセ教師たちは人々に自由と幸せを与えられるように見えますが、彼らは人を失望させ、また暗闇の道に導くだけです。

 また突風に吹き払われる霧とは何の意味でしょうか。霧はその実体が明確ではありません。安定的でもありません。あちこち流されます。突風に吹き払われる霧は混乱と彷徨い、また不安定を象徴します。ニセ教師の姿がまさにそうです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑します。彼らは人々に自由を与えると言いますが、自分たちが罪を犯しながら、罪の奴隷になっているので、決して自由を与えることができません。滅びだけがニセ教師たちのために備えられているのです。


2.主の日

 3章1節をご覧ください。「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」聖なる預言者と使徒たちが命じたことを覚えさせると、誘惑に落ちなく、堅く立つことが出来るからです。

 私たちがまず知らなければならないことがあります。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(4)と言うことです。しかしこう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです(7)。

私たちはこの一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。永遠の神様は過去にも存在し、現在にも存在し、未来にも存在します。ですから、時間の概念が人間とは違います。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


 主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、私たちは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょうか。もし私たちが主の日を待ち望んでいるなら、しみも傷もない者として、平安をもって主の御前に出られるように、信仰を堅く守り、敬虔な生き方を保たなければなりません。

 どうしたら、それが出来るでしょうか。18節の前半部をご覧ください。「私たちの主であり救い主であるイエスキリストの恵みと知識において成長しなさい。」救いの恵みをいつも覚えることが、毎日繰り返してそれを賛美しながら、記憶すること、また主であるイエス様が何方であることを聖書に基づいて知っていくことより、私たちの信仰を堅くし、誘惑から自分を守る力を貰えます。

 要約すると、ペテロの手紙は裁きの日を待つ人のために手紙です。裁きの日は来ます。いつ来るかは、神様のみがご存知です。私たちがその日を待ち望みながら、恵みと主を知る知識の上で成長していけるように切にお祈りします。



2010年ペテロの手紙の第8講

御言葉:ペテロの手紙2:1ー3:18

要 節:ペテロの手紙3:10


1.1-3節を読んでください。ペテロは信徒たちに何者が現れると警告していますか。また彼らは何を否認しますか。結局、彼らはどうなりますか(3)。


2.4-9節を読んでください。 罪を犯した者に対する神様の裁きは何ですか(4-6)。裁きの中で義人はどうなりましたか(7)。この出来事から学べることが何ですか(6,9)。


3.10ー16節を読んでください。情欲を燃やする者などが迎える結末は何ですか(12)。彼らの生活について話してみましょう(13)。彼らは誰を誘惑しますか(14)。彼らが従う道は誰の道ですか(15、16)。


4.17-22を読んでください。ニセ預言者の行いについて話してみましょう(17-19)。キリストを知った後、にせ預言者に征服されるものはどうなりますか(20-22)。キリストを知って、清められたものが頑張るべきことについて考えてみましょう。


5.3章1-9節を読んでください。ペテロが第二の手紙を書き送った理由は何ですか(1,2)。終わりの日にあざける者ともは何と言いますか(4)。彼らが見落としたことは何ですか(5-7)。信徒たちが見落としていけないことは何ですか(8)。主が望んでおられることは何ですか(9)。


6.3章10-18節を読んでください。主の日が何のように来ますか(10a)。その日、天と地はどうなりますか(10b)。その日、私たちは何者にならなければなりませんか(11,14)。私たちが望んでいることは何ですか(14)。無知な、心を定まらない人はどうなりますか(16)。私たちが気を付けなければならないことは何ですか(17)。また私たち何において成長しなければなりませんか。