2010年マタイの福音書第2講
王としてお生まれになったイエス様
御言葉:マタイの福音書2:1−23
要 節:マタイの福音書2:2
新聖歌137、9、96
今週の御言葉のメッセージを書きながら、私はまるでクリスマスのような雰囲気を感じました。クリスマスになると、ちょうど今週の御言葉でメッセージを書いたり、またこの内容に基づいた演劇をみたりするから、浮かぶ季節は冬で、頭の中でくるくる回る歌はクリスマス キャロルになったのです。王としてお生まれになったイエス様、マタイが福音書の読者に伝えようとした、イエス様です。
四つの福音書の著者は、各々、観点を持って福音書を書きました。マタイは王としてこられたイエス様、マルコはしもべとして来られたイエス様、ルカは人間であるイエス様、ヨハネは神であるイエス様を記しました。王として来られたイエス様を伝えようとしたマタイはイエス様の誕生を記述しながら、東方の博士たちを記録しました。彼らがエルサレムにきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と言ったことを大事に記録しました。今日の御言葉を通して、イエス様が王であることが分かるのがなぜ大事であるかを学べるようにお祈りします。
1.王として生まれになったイエス様
1節を見ると、イエス様はベツレヘムでお生まれになりました。この時、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。この博士たちは、王の諮問で、知識人で、また天文学をも研究した人たちでした。小さな国の王であった話もあり、少なくとも尊い身分の貴族には間違いありません。このような博士たちがエルサレムに来て、次のように聞きます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」博士たちが言うユダヤ人の王は、単にユダヤを治める王という普通名詞ではなく、メシアを指す固有名詞でした。
人々はメシアを待ち望みました。人々に真理を教え、また人生の道を教えてくださる方、そして自分たちを導いてくださる方を待ち望みました。正義と平和、また愛で自分たちを治めてくださる方を願いました。人々はメシアがユダヤ人の中で生まれ、またその時には特別な星が出ると信じていました。そのように信じたのは民数記「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、」(24:17)の預言がありました。多くの人たちが、特にユダヤ人たちが多く住んでたバビロン地域でこの預言が広がったそうです。
東方の博士たちはこの預言を信じ、星を観察していました。時になって、神秘(しんぴ)の星が上がるのを観察しました。彼らはそれがメシアの星であることが分かりました。それで、彼らは星に従って旅に立ちました。星に従って山を登り、川を渡りました。ところで、途中、その星を失ってしまいました。ただ星に従って長い旅をしてきたのに、その星を失ったから、当惑したと思います。博士たちは工夫して、エルサレムに入ってきくと分かるだろうと思ったようです。それで、エルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」ときいたのです。
エルサレムの反応はどうだったでしょうか。3節をご覧ください。「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」彼らはメシアが生まれたことも知りませんでした。メシアの誕生に喜ぶどころか、むしろ恐れ惑いました。
ヘロデ王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリスト、メシアはどこで生まれるのかと問いただしました。ベツレヘムであることが分かって、ヘロデ王はひそかに博士たちを呼んで、「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」(8)と言います。しかし、ヘロデ王はメシアを拝むつもりはありませんでした。自分の王権に妨げるものを殺したいことだけでした。後に、夢での戒めをもらって、東方の博士たちが別の道から自分の国へ帰ってしまったことが分かったら、ヘロデは、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させます(16)。
9節をご覧ください。「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」その星を見て、東方の博士たちはどうだったでしょうか。10節をご覧ください。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」彼らはとても喜びました。メシアの星が見つかったのは最高の喜びでした。
ここで、考えてみたいと思うことがあります。それはヘロデ王とエルサレムの人々は恐れ惑ったのに、なぜ東方の博士たちは喜んだか、ということです。東方の博士たちだけがメシアを待ち望んでいたのでしょうか。
まず、東方の博士たちは安楽な人生より、価値ある人生を選びました。御言葉を見ると、東方の博士たちが旅に立った期間は2年ぐらいでした。2年間の長旅で、彼らは疲れたと思います。また多くのリスクも負わなければらなかったと思います。さらに経済的な損失と、国での地位や安定的な生活もなくなるかもしれませんでした。それにもかかわらず、東方の博士たちが選んだのはメシアを見つけ、その方を拝むことでした。
彼らは永遠の価値を求めました。ローマ人への手紙2章6−8節を御言葉をご覧ください。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」神様は人を裁きます。人が何を求めるかに従って、裁きを下します。 栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちが与えられます。権力と利益を求める者には、それに応じて怒りといきどおりを下します。
人の人生は、何を求めるかによって違います。善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠の命が与えられます。東方の博士は栄光と誉れと不滅のものとを求めました。彼らにその上もない喜びが与えられたのもそのためです。しかし、悪を行うもの、つまり永遠の 真理に従わないで不義に従う者には、艱難と苦難ばかりです。ヘロデ王とエルサレムの人々が恐れ惑った理由もここにあります。彼らはメシアによって自分の人生が変わることを願いませんでした。ただ安楽に生きたいということでした。ヘロデ王は自分の王権のみを心配しました。聖書は一度も読まず、学者たちを集めて、メシアが生まれる所を聞いたのです。
次に、東方の博士たちはキリスト、メシアを拝みました。11節をご覧ください。「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」東方の博士たちはキリスト、メシアに出会いました。しかし、メシアは幼子でした。その方から何かの教えをもらうことはできませんでした。何かを得ることもできませんでした。むしろ、東方の博士たちが贈り物を捧げました。メシアを拝むと言うことは、メシアを受け入れ、またメシアの支配を受けると言うことです。彼らは彼らを治めてくれる王を探して、それほど長く旅してきたのです。
人には魂があります。人には体があり、精神があり、魂があります。体のためにはよい栄養、十分な睡眠(すいみん)が必要です。精神のためには、美しい景色や音楽や美術、そして、教養と文化活動が必要です。ところで、魂のためには、拝む対象が必要です。拝む対象がなければ、魂が空きになります。魂が渇くなります。満足もなく、人生の意味もなくなります。考えが暗くなり、心配になります。人には魂を治める王が必要であり、拝む対象が必要になります。メシア、すなわちキリスト・イエス様が必要なのです。
2.御言葉を成就したイエス様
16節をみると、ヘロデは、博士たちに自分に何も知らせずに、帰って行ったことが分かって、非常に怒りました。それで、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたました。。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのです。殺された子たちの母の泣き声がベツレヘムを満たしたと思います。私たちはこの事件から、三つのことを学ぶことができました。
一つ、ヘロデ王から、幼子イエス様を守った神様です。ヘロデ王は、自分の国のすべての人の生死を左右する権力を持っていました。 しかし、権力を持っても神様に勝つことができません。神様の御業を乗り越えることができません。神様は主です。この神様を信じて、すべてのことを神様に頼れるようにお祈りします。
一つ、イエス様を通して御言葉を成就した神様です。著者マタイはヘロデ王が子たちを殺した事件、またヨセフとマリア、また幼子イエス様とエジプトへ避難した出来事、またイエス様がナザレ地方で住むようになったこと、すべてのできことが、預言されたことだと強調します。イエス様の人生、生まれてから、十字架で死なれ、また復活されたことすべてが神様が預言者たちを通して預言した出来事です。マタイはこの預言を強調しながら、イエス様が神様が預言したメシア、イエス様が成し遂げたことが救いの完成であることを言います。いわゆる、イエス様は歴史的に検証されたメシアであり、王なのです。
一つ、ナザレ人なるイエス様です。23節をご覧ください。「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。」ヨハネの福音書を見ると、ナダニエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(1:46)イエス様は蔑視(べっし)されるところにから人々の牧者になろうとしました。そこから、救いの御業が始まりました。イエス様は王ですが、蔑視される人になりました。
しかしユダヤの人々はそれを知りませんでした。「ナザレ人」という一つの事実をもって、イエス様をキリストとして認めようとしませんでした。むしろ、東方からきた博士たちがイエス様をキリストとして受け入れ、拝みました。
まとめると、イエス様は、聖書で預言されたキリスト、メシアです。聖書の預言の通り、私たちを治める王であり、私たちの牧者です。このイエス様が私たちを治めるとき、私たちは価値あることに従えます。またその時、私たちに喜びがあります。魂の喜びがあるのです。ただイエス様のみが私たちの王、私たちの拝む対象となれるように、お祈りします。