2010年マタイの福音書第4講

神のことばによって生きる

御言葉:マタイの福音書4:1−25

要 節:マタイの福音書4:4

新聖歌137、102、316


 暑くなりました。夏が来ていると思います。もし学生ならば、夏休みに対する期待が高まると思います。しかし、学生たちには夏休みに入る前に、必ず超えなければならない難関があります。それは期末試験です。もし成績が悪ければ、追加試験の準備で尊い夏休みをつぶさざる得なくなりますから、一所懸命に勉強しなければなりません。試験は学校に通う学生だけのことではありません。就職のための試験、公務員になるために国家試験、また資格試験などを考えると、人生は試験の連続だといえるでしょう。

 今日の御言葉を見ると、イエス様も試験を受けます。悪魔からの試験でした。試みでした。悪魔はイエス様を誘惑に落とそうとして様々な方法でイエス様を試みました。悪魔はイエス様だけではなく、私たちをも試みます。罪を犯させるために、また私たちを悪魔の奴隷にするために、誘惑しているのです。

 今日の御言葉を通して、二つのことを学びたいと思います。ひとつは、悪魔の試みを乗り越えたイエス様です。このイエス様を通して、私たちも悪魔の試験を乗り越えるようにお祈りします。もうひとつは、試みが終わってから行われたイエス様の御業です。イエス様が行われた御業を学んで、私たちが行うべきことは何かをも学べるようにお祈りします。


Part1. 試みを乗り越えたイエス様

 1節をご覧ください。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」イエス様は御霊に導かれて悪魔の試みを受けます。この試みは神様によることです。なぜ神様がイエス様を試みに渡したでしょうか。なぜ神様は私たちを試みに渡すのでしょうか。それは私たちをより成熟なものに成長させるためです。試みを通してより信仰を固めるために、また自分の使命を覚えさせるためです。神様がイエス様を悪魔の試みに渡したのは、イエス様が試みを超えて、救いの御業を完成できるように導くためです。

 では、悪魔の試みは何でしょうか。またイエス様はそれをどういうに乗り越えたでしょうか。まず、悪魔は次のようにいいます。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」パンの誘惑でした。2節を見ると、イエス様は四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた状態でした。もしイエス様が石をパンに変える能力がなければ、これは誘惑にならなかったと思いますが、イエス様に権能がありました。悪魔はこの時期に、救いのために使われる権能をパン問題を解決するために使わせようと誘惑したのです。パンの問題は人間においてもっとも大事な問題のように考えられます。パンの問題、食べる問題、お金の問題がこの世の一番大きな問題だと信じている人がほぼです。ほとんどの人がお金が十分にあれば、幸せになると信じています。少なくともお金で苦しめることがないように、必要なお金が必要なときにあれば、不幸にはならないだろうと思って、お金に執着しています。しかし、イエス様は言われます。4節をご覧ください。イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」イエス様は人間の問題が決して、パンだけの問題ではないことをいわれました。

 貧乏な人にお金を上げれば、彼らが幸せになると思う人もいるかもしれません。飢え死にする人にパンこそ必要なこともないでしょう。しかし、それだけです。目の前の飢え死にすることを免れるかもしれませんが、その人を救うことはできません。人を救えるのは、神の口から出る一つ一つの言葉なのです。

 イエス様が悪魔に答えていわれた御言葉は、申命記に出る御言葉です。この御言葉はイスラエルがカナンに入る前にイスラエルに伝えられました。これから、裕福なカナンの地に入ります。そこには、食えるものがいっぱいあります。荒野とは比較さえできないほどです。そのときに、この御言葉が与えられたのです。なぜでしょうか。荒野でイスラエルに信仰がなかった時は確か、ありましたが、イスラエルが堕落したのはカナンに入って、裕福さに飲みこまれてからです。豊かさで、神様の御言葉に不従順し、神様を忘れてしまったのです。ですから神様はカナンに入る前に、パンではなく、神の口から出る一つ一つの言葉が人を生かすと教えておいたのです。

 人を生かすものは、お金ではありません。人を救うものは神様の御言葉です。まず、パン問題を解決しなければならないのではないかという悪魔の誘惑にイエス様は神様の言葉で人が生きると答えたのです。私たち、これから人を助けていくと思います。学生たちを救いの道に導こうとしています。そのとき、パンの問題を解決してあげることは決してその人を生かせないことを覚えなければなりません。御言葉が人を生かすと信じて、御言葉を教えることに心を込めなければなりません。私たちがパンより御言葉を上げる牧者となれるようにお祈りします。


 5節をご覧ください。悪魔がイエス様を試みます。まず悪魔はイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせました。そしていいました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」悪魔は神様の御言葉を用いてイエス様を誘惑します。イエス様に神様を疑わせます。

 悪魔は私たちに同じ方法で神様への信頼を崩します。「神様を信じて、自分の人生をかけて宣教師として日本に来られたら、すべてのことがうまくいくはずなのに、何でこんな苦難が来るだろうか、考えてみなけれならないのではないか」と、あるいは「神様を信じて、また宣教の御業のために、挑戦したことなのに、何でこんなに実がないのか」と声をかけます。神様への信頼を崩壊させます。

 神殿の頂から下に身を投げてみなさい、という言葉は疑ってみることを前提しています。しかし、イエス様はこのような試みに対して次のように言われます。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」主は試みの対象ではません。ただ信頼し、ただ従順する対象なのです。ヤコブの手紙1章6、7節には次のように書いてあります。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」

 イエス様は身を投げてみなさいという悪魔の誘惑にも神様を試みませんでした。イエス様の信仰は揺れませんでした。私たちに何があっても、神様に対する信仰が一切の揺れがないようにお祈りします。


 最後に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、いいました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」これは非常に美味しい提案ではないかと思います。悪魔が約束したのはすべての国々とその栄華です。またその代価として要求したのは、ひれ伏して拝むことです。拝むことだけで、すべての国々とその栄華を手に入れます。しかし、これはうそです。まず悪魔はすべての国々の主ではありません。しばらく主人ぶりすることができますが、まことの主人ではありません。ですから、すべての国々とその栄華をさしあげることはうそです。でも甘く聞こえます。すべての国々を得るのに必要なことは死ぬほど苦労することでもなく、また自分の生命をかけて挑戦する必要もありません。ただ、ひれ伏すことだけです。 「GIVE」(ひれ伏し)と「TAKE」(すべての国々)はあわないです。もしすべての国々をもらう代価としてそれほど大事なことが要求されたら、それも誘惑にならないと思います。簡単に何を得たい、という心から誘惑が始まります。

 私たちの中にも何かを簡単に獲得したいというこころがありうると思います。キャンパスの伝道はあまりしなくても羊を得たい、勉強せずに受験に受かりたい、メッセージや所感の闘争はあまりしたくないけど、御言葉の恵みは受けたい、祈らずに霊的な力を得たいということです。もしあまり苦労せずに何かを簡単に手に入れたければ、悪魔は私たちを誘惑するかもしれません。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」、と誘うかもしれません。この誘いにイエス様は何と言われたでしょうか。10節をご覧ください。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

 イエス様にとって、主に仕える道は十字架の道でした。苦難や嘲弄だらけの道でした。裏切られ、打たれ、十字架で死ぬことでした。より簡単な方法はなかったでしょうか。人類を救うためにその方法しかなかったでしょうか。それが神様の方法でした。イエス様はそれを受け入れ、すべてのことを我慢して、十字架で死なれました。そして復活され、栄光をもらいました。私たちも栄光がほしいでしょう。その道は御言葉に書いてあるように、主を拝み、主にだけ仕えることです。それが決して易しい道とは言えませんが、そこに栄光があります。もし私たちの心の中で、より簡単な道で成功し、大きな栄光を得たいという心があれば、悔い改めて主にだけ仕えることを選ばなければなりません。


 11節をご覧ください。悪魔の誘惑を乗り越えたら、御使いたちが近づいてきてイエス様に仕えました。私たちにも同じことが起こると信じます。もし誘惑に勝てば、御使いたちが私たちに仕えると信じます。


Part2. 悔い改めのメッセージを伝え、弟子たちを呼んだイエス様

 12節をご覧ください。「ヨハネが捕えられた」と書いてあります。バプテスマヨハネは当時の義人でした。ヨハネはヘロデ王が自分の弟の妻を奪ったことを非難したことで捕らえられたのです。罪を指摘したのに、彼は捕まえられました。さらに首まで切られます。その時代は義人が生きにくい時代でした。一時期はキリストではないかと考えられた人が悲惨な最期を迎えました。希望の光とは少しでも見えない暗闇の時代でした。

 その時、イエス様が行われた御業は二つでした。一つは悔い改めのメッセージを伝えたことです。当時のイスラエルの状況は明るくなかったと思います。罪を指摘した義人の首が落とされました。また24節を見ると、人々が、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来たことが分かります。イエス様が5千人を食べさせた出来事を見ても、その時は弁当も持参できない人がほとんどでした。病気で苦しく、貧困で食べる問題さえうまく解決できない人たちでした。この人たちの病気をいやし、パンで食べさせれば、それで十分だったかもしれません。ところが、イエス様はこの人たちに悔い改めのメッセージを伝えました。病気で苦しめ、貧乏でよく食えないものが罪を犯す暇があるでしょうか。むしろ余裕があって、また権力があるものが罪を犯しやすいと思われます。しかし、貧乏人で罪を犯さないことではありません。恨み、ねたみ、絶望や無気力による罪が多いです。表で現れないこのような罪がより大きく魂を破壊します。人は誰もで悔い改めが必要です。そのために、イエス様はこの人たちにも悔い改めのメッセージを伝えたのです。

 またイエス様は神の御国を伝えました。天国で享有する永遠の人生を伝えました。病気の人や貧乏人に神の御国は要らないようです。まず、現実の問題の解決が優先になります。しかし、神の国に対する福音は、必ずなければならない教えです。現実がいくら苦しくても心に天国に対する希望と信仰を持っている人は幸せになり、またこの世の苦難を耐えられる力を出せます。

 神様の主権に対する信仰がない人は、現在起きている出来事を分別することができません。将来に対する希望と方向をつまむことができません。また永遠の命やあの世での人生に対する信仰がなければ、死によるむなしさや絶望やおそれから逃れることができません。天国があり、すべては神様が治めるという信仰の持ち主は、今が苦しくても、結局神様が善に導くという信仰で万事に感謝することができます。厳しい現実で苦しめられる民に必要なことは、まさに神の御国に関する希望と信仰なのです。


 イエス様が行われたもう一つの御業は弟子たちを呼んだことです。18節をご覧ください。ガリラヤ湖でペテロとアンデレを呼びました。彼らに次のように言われました。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(19)彼らはすぐに網を捨てて従いました。イエス様は漁師を弟子にしました。

 私たちはここで、暗闇の時代を照らす人は、賢い人ではなく、従順する人であることが分かります。神様は従順する人を用います。アブラハムは75歳の年寄りでした。青年もない彼が神様の御業に用いられ、信仰の先祖となれたのは、神様の御言葉に従順したからです。

 神様はイスラエルにも同じことを言われました。イスラエルがエジプトから出て、神の山に着いた時、神様は彼らに言われました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」、ここでの条件「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、」イスラエルは聖なる民となれるのです。


 神様が用いる人は、従順する人です。イエス様は呼んだ人も従順する人です。イエス様に従順する人はいくら足りなくでもイエス様の助けによって、大きな御業を行うようになります。ペテロとアンドレ、ヤコブとヨハネ、彼らは「わたしについて来なさい。」というイエス様の御言葉に従って、船と父親を捨てて、イエス様に従いました。そして、人類を救う大きな御業に用いられました。

 私たちが弟子養成するとき、私たちはイエス様の御言葉に従順することを教えなければなりません。さらに、私たちがまずイエス様の御言葉に従順しなければなりません。私たちがイエス様の御言葉に絶対的に従順するものとなれるようにお祈りします。


 まとめると、イエス様は悪魔の試みを打ち勝たれました。そして、悔い改めのメッセージを伝え、神の国が近づいていることを教えました。弟子を呼んで、人類の救いの礎としました。私たちもこのイエス様を学ばなければならないと思います。パンの問題が先ではないか、果たして神様は私を助けてくれるか、またこの世の栄華も良さそうではないかという誘惑があるかもしれません。しかし誘惑は神様の御言葉で乗り越えましょう。そしてイエス様のように悔い改めのメッセージを伝え、弟子を呼びましょう。これがイエス様が人類の救いのために、行われた御業であり、イエス様の弟子たちである私たちが行うべき御業です。私たちがイエス様に従って、悔い改めるメッセージを伝えるように、弟子養成できるようにお祈りします。